連日、映画と見紛うようなウクライナ侵略戦争の報道がなされています。ここにきて、「ジェノサイド」と呼ばざるを得ない予想もしなかった現実があらわになりました。
本来、戦争とは軍と軍の戦いであり、民間人を巻き込むことは許されません。戦争にもルールが存在しており、それを破れば戦争犯罪として断罪されます。
道端に転がる遺体、それにすら仕掛けられた地雷、戦車で轢かれて黒焦げになった民間人の車、外見で判別できないほど拷問を受けて亡くなった人々。女性は暴行され、子どもも容赦なく命を奪われて、道を歩く人々は次々と銃殺されています。
第二次世界大戦を経験したウクライナ人の老人は「ドイツ軍でもここまで酷くはなかった」と証言していました。ウクライナで起こっている侵略戦争の世界史的な意味は、その老人の言葉に集約されるでしょう。世界は大きく後退しました。
思えば、第二次世界大戦以降の世界は、たとえそれが見せかけだとしても、平和と呼べる状態が続いていました。その最中に生まれたわたしたちは、平和は当たり前だと錯覚してしまっていたように思います。
しかし、「進撃の巨人」で100年間平和だった国の壁が突如出現した超大型巨人によって破壊されたように、戦後の国際秩序はロシアの侵略戦争によって一気に崩壊しました。ヨーロッパ各国は軍事力強化に焦るように舵を切り、日本でも核武装や軍事力強化に向けて世論が高まることでしょう。
ウクライナの侵略戦争が終われば元通りになるかもしれないという淡い期待は打ち砕かれます。戦争や文明は人々の集合意識に多大な影響を与え、それは人から人へと伝播して国や社会の雰囲気を左右します。世界の人々はウクライナ侵略戦争の後遺症という「生きづらさ」を引き受けるのです。
とくに子どもは「言葉にできない重い雰囲気」を敏感に感じ取ります。社会全体の重苦しさはニュースやネットやSNSから毎日流れ、人伝に聞き、無自覚な意識に刷り込まれていきます。
ウクライナの侵略戦争が遠い世界の話であって、直接的な影響は経済的なことだけだと「大人の頭」で考えていると、世界の息苦しさは「子どもの心」にゆっくりと染み込み、大人になったときに「生きづらさ」となって現れるでしょう。
戦争の怖さを伝えよう、戦争を二度と起こしてはいけないとずっと言われてきたその戦争が、今リアルタイムで起こっています。このときに思考停止して、口をつぐみ、目を逸らすとすれば、一体いつ、思考を働かせ、口を開き、現実と向き合うというのでしょうか。
今後、さらに戦火が拡大し、ジェノサイド以上の現実が訪れないとも限りません。仮にそれが現実となっても、ならなかったとしても、すでに「あり得ない現実」がもらたす負の連鎖を、今の子どもたちは何十年も引き受けていかなくてはなりません。
今の大人は試練の時代を生きる子どものために何を教え、何を与えることができるのでしょうか。衣食住の確保の道筋を子どもに示したとしても、子どもが「生きづらさ」を抱えていたらどうでしょう。それともそれは、子どもの自己責任なのでしょうか。
「わからない・むずかしい・関係ない」という口癖で目を逸らすことのできない現実が、今、この地上で起こっています。「生きづらい」世界であるという現実はどうしようもありませんが、「生きづらさ」を薄める考え方やものの見方は伝えることはできます。
これからの大人は自分自身と向き合い、「生きづらい世界」と向き合い、その世界で生きる子どもの「生きづらさ」と向き合い、子どもの「生きづらさ」を薄めるための心のあり方を示すという子育てが求められます。
(了)