ゆとり世代の新入社員を迎えるにあたって(2)

(前号の続き)

 

 

無知を責めるのは、未熟さを責めるのと同じことだ。未熟なものをつかまえて、熟してないことを批判する。それは青いリンゴをかじって熟していないと文句をいうのと変わりはない。

 

 

自分のやり方が正しい。自分のやり方が絶対だ。

 

 

仕事に慣れてくると、そういう過信が芽生える。それを部下や同僚に押し付けるようになる。ゆとり世代の新入社員は全然使えない。そんな愚痴を公然と口にすればするほど、上司としての狭量が露呈されるだけだ。それは小学生の子どもを前に、あれができない、ここが足りないと怒ることと変わらない。未完成なものを前に、「未完成であること」に苛立つのは「人育て」から最も遠い行為だ。

 

 

若者の未熟さは、時代によって傾向が変わる。ゆとり世代の未熟さは、疑似体験や情報に溺れている点にあると感じている。それは時代を反映しているだけで、彼らよりも団塊の世代やバブル世代、ベビーブーマー世代の若い頃の方が優れているとはとても言えない。

 

 

むしろ、子どもという未熟な存在をありのまま受け入れることができず、大人が扱いやすいような「小さい大人」としての子どもを望んだ世代の責任は重い。それを忘れて、ゆとり世代に責任を押し付けることはできないだろう。

 

 

新しい世界に足を踏み入れるのは誰でも不安だ。まして、学校的な安全圏から社会という荒波に飛び出す新入社員は不安に満ちているだろう。仕事は人間関係だ。生徒に理解ある先生が教えていた科目は好きな科目になるように、部下に理解ある上司がひとりいるだけで仕事に意欲が湧く。

 

 

怒鳴っても、押し付けても、呆れても、人は成長しない。教育とはそういうことではない。部下を訓練すると思っているうちは、心を開かないだろう。心を開かなければ、何も始まらない。ビジネススキルを型通り読み上げるだけでは、心ない先生の作業のような授業と同じく、教わったという事実しか残らない。

 

 

ビジネススキルを声高に叫ぶのも必要なことだが、新入社員の意欲をかき立てるものは、それよりもっと前提の問題かもしれないということを、ゆとり世代に関わってきた社会人のひとりとして言わせて頂く。

 

 

(了)