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「それ教育虐待だよ」
子どもが親に冷たい目を向ける。親は頭に血が上り、思わず声を荒げてしまう。
「それはただの虐待」
冷たい宣告が響き、親はそれ以上何も言えずに黙り込む。
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ここ最近、教育虐待が注目されています。体罰と虐待、そして教育虐待。パワハラの浸透と同じ流れで、今後は教育虐待も社会全体に周知されていくでしょう。前述のような親子のやりとりも、物語の世界の話だけではなくなります。
立場の強い人間がその立場を利用して弱い人間に嫌がらせをすることは許されない。その情報はネットやSNSを通じてあまねく拡散され、やがて立場の弱い人間は矛と盾としての使い方を学ぶようになり、ときとして双方の立場は逆転します。教育虐待という言葉が定義されたときから、子どもたちはその言葉を共有し、盾と矛としての使い方を模索するでしょう。
親はその対抗策を探し始めます。「子どもから『教育虐待』と言われたときに読む本」という書籍も現れるかもしれません。しかし、その対抗策も子どもたちの手によって瞬く間に拡散されます。
その論理を超える論理を親が身につけるのは至難の業。最後は親が感情で押し切れば、子どもは「対親用」の仮面を用意して心を閉ざします。
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親A「あなたのためを思って言ってるの」
子A「思い通りに支配したいだけでしょ」
親B「言う通りにやればうまくいくから」
子B「自分が絶対正しいとか無理」
親C「今回は成績良くて安心。これで恥ずかしくないわ」
子C「わたし、親のアクセサリーじゃないし」
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しつけと教育の境界線はどこにあるのか。どこまでがしつけや親の裁量であり、どこからが子どもの人権なのか。条件付きの体罰を容認する根強い意見と同じ構造で、教育虐待の線引きは曖昧なまま、しばらくは萎縮する親の経験と直感に委ねられるでしょう。
「親が子どもに着せたい服」と「子どもが着たい服」が同じであれば問題はありません。しかし、その二つが食い違う場合、どこまで「親が着せたい服」を押し通してもいいのでしょうか。どこからが教育虐待とされるのでしょうか。
「親が着せたい服」を一方的に子どもに押し付けるだけでは、子どもは心を開きません。たとえそれが「子どもに似合っている服」であったとしても。
「子どもが着たい服」を親が制約する際の言動が、子どもの親に対する印象を決定づけます。親の対応の仕方ひとつで「話しても無駄」と感じるか、「話したらわかってくれる」と感じるか。日常の中に潜む子育ての重大な分岐点です。教育虐待を避ける解決方法はここにあります。
子どもの自由を制約するには、子どもが納得する手間と努力を怠らない。どれだけ忙しくても、真摯に子どもと向き合って話し合う。子どもを一人の人間として扱う。子どもの意思に反したまま感情で押しきらない。
これはそのまま上司の部下に対する態度、教師の生徒に対する態度にも当てはまります。信頼関係が成立しなれば、双方が不信を抱えたまま、根本的な解決はなされないまま、立場の強い側の自己満足と弱い立場の側の負の感情だけが残ります。
話し合いが苦手、親は完璧じゃない、親だって人間。
自分をかばうための言葉を探すのをやめ、鞄の奥底に謙虚にしまいこんで、子どもと話し合う。子どもの気持ちを理解しようとする。体の芯から温まる温かさと思いやりはそのとき生まれます。
マニュアルや子育ての本にあるような上部だけの温かさでは子どもは動きません。手軽なものに頼ろうとすればするほど、子育ては空回りします。子育てもまた人間関係の一形態であり、時間をかけて信頼関係を育むものだからです。
どこからか借りてきた思いつきの言葉で理解させるのではなく、時間をかけて心で納得させる。相手を思いやる。卑怯で姑息なことはしない。
人間関係の基本を忘れなければ、教育虐待はもちろん、「子どもが何を考えているかわからない」や「どう接していいかわからない」という事態には陥ることはありません。
子育てのハードルが上がり続けているこの時代、「子育ては人間関係の構築」であると認識して実践する。教育虐待を防ぐのは、そうした謙虚な心構えであることを忘れない。人間力とも呼ばれる非言語の力こそ、子育てを支える強固な芯としての役割を果たします。
(了)