正確無比な球形を真球という。
真球は自然界には存在しない。観念の中で静止し続けるだけで、実在しない。だが、球体を作ろうとするとき、誰もが真球を手本にする。
触ったことも見たこともない真球をイメージするには、そうさせるだけの球体に触れる必要がある。立方体や円錐や多角柱しか知らない人は球体をイメージできない。
若かりし頃、美しい球体を目にすれば憧れる。それを手本に真球をイメージして、長い時間をかけて目指す。幸運なことだ。
だが、実際に真球は存在しない。地球でさえ完全な球形ではない。地球の中心から赤道までの長さと、地球の中心から北極や南極までの長さはちがう。距離にして二十キロメートル。前者の方がわずかに長い。
これは地球の引力と遠心力が関係している。引力よりも自転によって生み出される遠心力のほうが強いためだ。動き続けている分だけ遠心力が勝り、楕円形を形作る。
真球と楕円形との膨らみの差。現実に引かれる力と理想に飛び出す力の間に、自分の生き方をバランス良くなびかせることができたなら、それは幸運なことだ。
真球を知らずにひたすら回り続ければ、遠心力のなすがまま、外へと張り出して皿のような形になる。そもそも回ろうとすらしなければ、思いつくがまま四方八方に角が立ち、不格好な立体となろう。
あるいは引力に抵抗できずに、ひしゃげた平面となって二次元の空間から三次元の空を羨望の眼差しで見つめるかもしれない。
真球を彷彿とさせる人物に出会えた人は幸運だ。それに気づいた人は、この上ない幸運だ。長い年月をかけ、真球を目指して回り続けた今の形を正確に評価できるのは、その人物しかいない。
生き方の答え合わせをしてくれる。
本当に幸運だと思う。
だから本当に幸運だ。
(了)