時を加速させる(5)〜良書と行間〜

(前号からのつづき)

 

 

キリンの外形だけを知っている子どもが作った粘土像と、キリンの構造や生態までも知っている子どもが作った粘土像にいかなる違いがあるのだろうか。

 

 

全体像を知っている人間がその中から選んで伝えることと、それしか知らない人間がそれだけを伝えることが結果的に同じだった場合、それは生徒にとって「同じ」なのだろうか。

 

 

確かに情報量としては同じかもしれない。だが、その厚みは違う。

 

 

アカデミックな知識とは活字として表れない行間にも似ている。活字は目に見える情報だが、書き方ひとつで見えない行間に奥行きが生まれる。それが読み手の心を揺さぶり、想像力を刺激する。

 

 

1000の知識と理解から絞りに絞って表に出した50と、はじめから50しかない知識をそのまま全部出した50では見えない厚みが違う。

 

 

とは言え、アカデミックな知識量が魅力的な授業と直結するかと言えばそうではない。キリンを知らない子どもがキリンの粘土像を作ろうという時に、キリンの生態ばかりを延々と話しても意味がない。それは単に知識をひけらかす独りよがりの授業になる。そうなると、外形を上手く伝えられる人間の方が、良い先生と呼ばれることになる。たとえキリンの外形しか知らなかったとしてもだ。

 

 

このブログは多くの教育関係者に目を通して頂いているようだ。それを踏まえ敢えて問いたい。

 

 

子どもに必要な知識を過不足なく伝えることが「教える」ということだろうか。情報を取捨選択して、それをわかりやすく伝える。それは「教える技術」であっても、「教える」こととイコールなのだろうか。

 

 

これを考える上で、書籍について思いを巡らすことは助けとなるかもしれない。読み手の知らない世界を伝えるという点で、書籍と「教える」ことには共通項がある。その視点から言えば、「良書」は優れた授業を意味することになろう。

 

 

三たび「教える」経験を持つ人々に問いたい。自分の授業はどんな書籍に例えられるだろうか。その書籍には、どれほどの行間があるのだろうか。

 

 

(続く)