今年も間もなく終わる。だが、受験生にとっては、何も終わらない。
年明けから次々と始まる受験に、ひとつの結果が出るまでは、何も終わらない。
合格か不合格か。それが分かるまで、何も終わらない。
合格可能性を高める。受験で度々用いられる表現だ。そこには様々な解釈が入り込む余地があろう。
10回受験して、10回合格する状態に近づけること。
合格可能性を高めるとはどういうことかと尋ねられたならば、私はそう答える。
もちろん、現実に10回の受験はできない。しかし、10回受験することができる仮定法を用いたとしたら、10回全てに合格できると言いきれる人はどれだけいるだろうか。
残念ながら、合格可能性を高める方法はあっても、必ず合格する方法は存在しない。合格圏内を示す模試の判定はあくまで合格可能性の目安に過ぎない。不測の事態と不利な状況が重なれば、その文字は霞む。
10回受験して9回合格できる力がある受験生でも、合格できない「その1回」が本試験の日と重なることもある。合格と不合格は、現実の扉の向こうで揺らいでいる。どちらが自分の現実に転がり込んでくるのかわからない。
受験生としての自分が立つ現実。そこに合格を引き寄せるために、何年にも渡り努力を積み重ねる。それは言葉では積み重ねることのできない蓄積である。
受験前は一つの道に立つ。受験の扉を開けば、二択の道に分かれるだろう。合格の時は合格の道へ、不合格の時は不合格の道へ分かれる。同時に進むことはできない。どちらか一方の道に進むことしか許されない。
合格した道を歩いている自分は「合格しなかった自分」を知らない。不合格だった自分は、「合格の道にいる自分」を知らない。
だが、どちらの道も結局は最後に一本の道になる。どちらの自分も重なる。後にそう気付く。それに気付かないとしたら、何かがどこかで間違っている。
成功体験からしか得られないことがある。それと同じように、失敗体験からしから得られないことがある。それはコインの裏表の関係に等しい。
成功はすぐに得られる。失敗は時間をかけて得られる。その違いしかない。
コイントスを決意して、その一瞬のために努力し続けた者は、必ずどちらかを得る。必ず、得る。だから、表が出ようと裏が出ようと恐れることはない。
失敗は惨めなことではない。惨めなのは、コイントスを訳知り顔で傍観することだ。何かを目指して努力を積み重ねた人間に惨めなことは微塵もない。
だから、握りしめたコインを、全力で天に向かって弾けばよい。
(了)