以前、現代文の授業をしていたときに、
「よく耳にするけど、実はよく意味がわからない言葉ってある?」
と生徒に尋ねたことがある。
するとある生徒から、「実は」という前置きとともに、
「『知性的』の意味が未だによくわかりません。知性的ってどういうことですか?頭のいいことですか?」
と訊かれた。
僕が「じゃあ、頭がいいってどういうことだと思う?」と尋ねると、
「先生があえてそういう質問をするということは、勉強ができるとか、物をたくさん知っているとか、そういうことじゃないんですよね」
と笑った。
海にたとえよう。
広大な海の広さを知り、深さを知り、そこで起こっていることを理解する。海の過去の姿を想像し、海の未来を予測する。それによって、今の自分がどこにいて、どのように世界とつながり、どうすべきかを適切に解決できる。
知性とは、その状態をいう。
単純にいえば、勉強とは、海を紹介する映像を観るようなものだ。海の成り立ちや、海の生物、海の働きなど、要所をかいつまんだ映像を見て、海とはどういうものかを理解するのに似ている。それを観たからといって、知性的になったとは言えない。しかし、知性的な人は、その映像で紹介されていることは全部知っている。それ以上のことも知っている。それが知性のもつ「幅」なのだ。
感情は喜怒哀楽の四つに分けられる。感情が豊かな人間というのは、それぞれの感情の「幅」が広い。プラスの感情の幅も、マイナスの感情の幅も広い。バランスよく広い。知性もそれと似ている。
この世界には達成でしか学べないことがある。
この世界には挫折でしか学べないこともある。
方向性の異なるそれぞれのプラスとマイナスの学びをくり返すことで、知性の絶対値の幅は広がり、知性的という状態に突入する。
実際の海は映像の海とは比べものにならない圧倒的なスケールだ。それによって映像で学んだことをリアルに感じるだろう。その映像の知識によって救われる場面に遭遇することもあるだろう。そのときに、映像の知識にもある程度に意味があり、ある程度の意味しかなかったと知る。それも知性の一部だ。
達成でしか学べないことから、あますところなく学ぶ。
挫折でしか学べないことから、あますところなく学ぶ。
達成と挫折が同じバランスになるような経験を積む。どちらが多過ぎても、どちらが少な過ぎてもいけない。過信も、自己否定も、知性的ではない。
達成によるブラスの学び、挫折によるマイナスの学び。それらが積み重なると、絶対値の幅が広くなる。+10と−10を単純に足せば0になるが、絶対値としては20となる。
そうやっていくと、あるとき、正負の符号がとれて純粋な絶対値だけが残ることに気づく。正負で区別をしていたのは、「知性的ではなかった弱い自分」だと気づくようになる。
知性的とは、達成も挫折もすべて正負の符号のない純粋な自分の深みとして転嫁できる見識をいう。
「強さ」とはそういうことだろう。
(了)