「おもしろくなりたいです」
コーチングの受講生でひとり、口癖のようにそう語る人がいる。私は彼がおもしろくないとは思わないのだが、本人はコンプレックスにも似た感情を抱いているようだ。
どんな風におもしろくなりたいのかと尋ねても、明確な答えは返ってこない。具体的なイメージは掴めないが、とにかく「おもしろい」という状態に自分を導きたいという気持ちが先行している。
私は中高生の頃、つまらない授業に対して、「一体これは何の罰ゲームだろう」という思いを抱いていた。好奇心が刺激されるでもなく、笑いがあるわけでもない。最も感受性が高まる中高生の貴重な時間が次から次へと失われていく様を、反面教師として刻んだ。
人生は自分ひとりの時間と他者と共有する時間で成り立っている。自分が誰かと時間を共有するとき、自分の才覚ひとつで時間を共有する人々の時間の質を、高めることも低めることもできる。
私が「おもしろいこと」を言えば、相手もおもしろくなる。相手の知的好奇心を刺激したり、他愛のないことで笑わせたりするだけにとどまらない。相手が気づいていないことを示唆したり、悩みを解決したり、その時間の最後に喜びの余韻がたなびく時間は「おもしろい」という大きな表現にくくって構わないだろう。
服は自分のためではなく、時間を共有する相手のために着るという考え方がある。共有する時間を「おもしろくする」ために「おもしろくなる」というのは、服によるもてなしの考え方に近いかもしれない。
自分の言葉で相手の時間の質が決定される。その時間の蓄積が人生である。つまりそれは、相手の人生の質を左右するキャスティングボードを自分が握っていることを意味する。それは大袈裟に過ぎると笑い飛ばす人は、人間についての考察と思慮に欠けている。
私は授業やコーチング、コンサルティングは当然として、友人や恋愛や結婚においても、相手と共有する時間に感嘆と感心と共感と笑いをできるだけ散りばめようとしてきた。素直になれる時間は喜べる時間へと繋がる。そこに絶え間ない笑いは欠かせない。おもしろさと笑いは密接な関係がある。
小さい笑いは声の抑揚と同じで、相手の注意を心地良く引きつける役割を果たすが、心底の大笑いは少し違う。相手が最も素直になれるのは、腹の底からの大きな笑いが起こるときだ。
だから私は相手を腹の底から大笑いさせる機会を常にうかがっている。人が腹の底から大笑いするときは、大口を開けたままお腹をくの字にして身体を折り曲げる。最初のうちは、息ができないときのように笑い声は聞こえない。
民俗学者の柳田国男は、イベントなどの特別な日を「ハレ」と呼び、それ以外の日常を「ケ」と呼んだ。時々ハレの「おもしろさ」をつないでいく人生と、日々のケに「おもしろさ」を敷き詰めた人生の差は、人生の核心そのものでもある。
「おもしろくなりたい」という冒頭の問いを掘り下げていくと、思いがけずQOLに行き着くことになる。日々相手をもてなし、喜ばせようとすることが、相手と自分の人生の質を高めていく。これを大袈裟だと考えるのであれば、人生についての考察と思慮に欠けている。
(了)