To the mentors of the future

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杉田議員の「生産性」発言をメンターの視点で読み解く

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杉田議員が新潮45(8月号)に寄稿した文が波紋を呼んでいる。この問題をメンターの視点でどのように考えたらいいかという質問を受けた。

 

 

そこで改めて全文に目を通してみた。必要以上に権利を煽って社会を混乱させるリベラル系メディアに対する不信感が根底にあり、その論証のためにLGBTをテーマとして選んだように思える。リベラル系メディアのスタンスは批判しているが、LGBTの人々に対する直接的な批判は見当たらない。そのような文脈の中に次の文が現れる。

 

 

「しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」

 

 

この文にある種の思想を感じたか否か。感じたとして、見過ごせるか否か。看過できなかった人々が、一斉に拳を振り上げた。

 

 

しかし、振り上げた拳の温度は異なる。擁護派も同様だ。さまざまな意見がまるで立体高速道路のように交錯している。上空からは多様な意見が接しているように見えるが、横から見ると上下に離れている。この「横から見る」という視点はメンターにとって大切だ。

 

 

この文を「子どもを作らない人間は生産的ではない」という以外に読み取るのは難しい。その思想的背景を素直に解釈すれば、「子どもは国家にとって経済的生産性をもたらす存在である」という前提がうかがえる。

 

 

「国家にとって経済的生産性がある子どもを生産しない人間は、国家にとっての経済的生産性を有しないのだから、税金を投入する理由がない」

 

 

寄稿文全体の中に位置づけても、どのように控え目に解釈しても、この結論に行き着いてしまう。これは誤解や気の迷いで導くことができる言葉ではない。長い年月をかけ、自分の身体や人格や知性の一部として染み付いた言葉だ。そうでなければ、「つまり」以下で「生産性」を括弧で括ったりはしない。自分の思想を的確に表現する確信的な一語として「生産性」を用いている。そのことは「生産性」が自分の思想の中核を成す言葉であると告白しているに等しい。

 

 

生産の対義語は消費である。人を「生産・消費」のサイクルの中で記号的に位置付けようとする思想を受け入れることはできない。他人を評価する理由、人間関係を構築する理由、努力する理由、自己投資する理由も、「生産・消費」という経済的目的である人生は貧弱で刺々しい。そのような人々と関わるのは重苦しい。その重苦しさは閉塞感となって社会を覆う。

 

 

しかし、社会であれ、会社であれ、家族であれ、生きやすいコミュニティにとって多様性は欠かせない。多様な価値観と生き方を持った人間が堂々と生きられるコミュニティのためには、多様性を許容する土壌がどうしても必要になる。

 

 

メンターはそのことを常に念頭に置きたい。自分と異なる考え方を排除する論理を組み立てることに時間を費やしてはいけない。自分の立場にとっての閉塞感も、別の立場にとっては開放感かもしれない。それぞれ異なる立場を排除するのではなく、共存させ、議論を通じて共通項を探り出し、新しい思想へと繋がる扉を探し出す。

 

 

多様性を受け入れる生きやすいコミュニティであれば、自浄作用が働く。コミュニティを生きにくくする思想は隅に追いやられる。その自浄作用のために、多様性を守らなくてはならない。メンターはその大きな視点の中で自分を動かすことを心がけたい。

 

 

(了)