「メンター資質を持つ人」は何が違うのか。
その問いに一言で答えるとすれば、「相手を変化させる『きっかけ』について常に考えを巡らすことができるかどうか」だろう。
教える仕事に従事する人を例に挙げたい。生徒に何かを教えるとき、メンター資質のない人は、「わかりやすく説明する」ことだけを考える。しかし、問題の解き方は、その役割を終えれば時間とともに風化する。
だが、メンター資質がある人は違う。その生徒の変化にとって、どんな「きっかけ」が必要かを常に考え、試そうとする。問題の解き方の説明の中にも、変化の「きっかけ」を忍ばそうと考えを巡らす。その「きっかけ」は風化することなく、時間軸上を這うように次の世代に引き継がれる。
人が人に教えられることは限られている。刻一刻と迫る時間の中、その日その時そのタイミングで、ほんの一瞬偶然重なり合った複数の小さい穴の向こうの的を目がけて、言葉の矢を放つ。
時間と動きの制約の中で定まらない的を狙うという意味では、走る馬上から的を射る流鏑馬のようでもある。
人によって変化の「きっかけ」もまるで違う。ある言葉をかけられて人生が変わる人もいれば、何も感じない人がいる。しかし、そこで何も感じない人であっても、別の言葉で考え方が様変わりすることもある。
一生かけてその「きっかけ」に巡り合わない人もいれば、人生の早い段階で出会う人もいる。その差は人生の質の差そのものだ。誰もがみな、その「きっかけ」を探し続けている。メンター資質とは、偶然に委ねられたその「きっかけ」との出会いを、必然に引き上げようとする意思も含む。
その「きっかけ」は、穏やかな変化を誘発する「きっかけ」のことではない。視力の弱い人が初めてコンタクトを装着したときの鮮明な風景。そのときに抱くあの感慨のような、劇的な変化を呼び起こす「きっかけ」をいう。
その鮮烈な風景。それまでぼやけていたものが、隅々まではっきりと見える感激を繰り返し、人は成長していく。
メンター資質がある人は、相手に「見せたい」と願う。自分が見えている風景と同じ光景を、相手に「見せたい」と。そのために、その生徒に合った劇的な変化のきっかけをいろいろと試す。
その相手に合うと直観するありとあらゆる方法で、長い時間をかけて、いろんな方法で無数の「きっかけ」を放つ。
その視点、その機転。
その熱量、その広量。
そのすべてをひっくるめて、メンター資質という。
(了)