日本人は知的雑談力が低い。英語を母国語とする西欧の人々との会話からそれを痛感させられる。
イギリスでは単語の発音で属する階級が明らかになる。以前に知り合ったとあるビジネスマンは、一聴してそれとわかる美しいキングスイングリッシュの発音で、期待を裏切らないシニカルで知的な言い回しを駆使していた。
とくに日本の教育に興味があったようで、日本人なら世間話として聞き流すようなエピソードも、その中に覗く原因や分析について私の見解を問いただした。それについて私がさほど流暢ではないアメリカ英語で答えると、そのことは全く意に介さず、嬉々として話題を次々と広げていった。
アメリカ人に関しては、発音だけで階級や社会的地位を即座に推測することは難しい。しかし、平易な英語で知的な会話を組み立てる様子から、自ずとおおよその肩書きや社会的地位は察しがつく。私は留学時代を含めて多くのアメリカ人と接してきたが、知的雑談力と仕事の有能さは正比例の関係にあると理解するようになった。
しかし、この公式は日本では必ずしも通用しない。日本では肩書きや地位と知的雑談力とのギャップが大きい。少なくとも私が知り合ったアメリカやイギリスのエグゼクティブは、山麓の湧水のように話題が途切れることがなく、その言葉には世界観と人生観がふんだんに染み込んでいた。その清々しさは私の倦んだ気持ちを洗い流し、知的好奇心を刺激してくれた。別れたあとにThe EconomistやTIMEを読み返す自分がいた。
それゆえに、日本人のエグゼクティブとの出会いは困惑と違和感に包まれる。肩書きと地位に見合う会話を経験した記憶に乏しいのは、私を襲った不運な偏りとは思えない。口べたや寡黙であっても、言葉には世界観や人生観が溢れ出すものだが、どう探ってもそれを感じられないという場面に幾度となく遭遇した。
凡庸で、退屈で、しおれている。彼らがその肩書きや地位を剥がされたとしたら、うだつの上がらない人材となるだろう。そんな現実が不意を突いて脳裏にカットインする。
日々この上司と接する部下の失望。それが私に乗り移る。根雪となった彼らの失望を絶望と呼ぶことは、昭和世代である私の償いのひとつでもある。その根雪が現在の日本の閉塞感の一翼を担っていると言い切るのは、それほど覚悟がいることではない。
日本人は権威に弱いと言われ続けてきた。日本固有のムラ社会の中で同調することを要求されてきた結果、思考停止によって個を潰し、揺るぎない常識としての権威に受動的に従う生き方を受け入れてきた。常識に従い、地位や肩書きといったあらかじめ決められた「日本ムラ固有の権威」を手に得るためのルートが存在し、その手段として勉強が必要だった。それが昭和世代の生き方だった。
しかし、昭和世代の中の一握りの知性ある人々は、経営や学術や教育などの側から、「学びとは権威や常識を疑うこと」という発信を続けてきた。その種が平成世代で開花し、昭和世代が盲従して崇め奉る「日本ムラ固有の権威」に疑問を呈すようになった。実力と肩書きがつり合わない既得権益の「不当利得」を得ている人々に対して、公然と懐疑の目を向け始めている。
権威と常識に従う昭和世代。
権威と常識を疑う平成世代。
権威と常識を嗤う令和世代。
令和世代は昭和世代に通用した権威の正体を白日の元に晒し、冗談のような時代だったと嗤うだろう。人間的魅力のある人間が然るべき地位と肩書きを得て、部下や下の世代の目標となり、彼らを育てる。不毛な権威が消える。それだけで社会の閉塞感の大半は失せる。社会は変化する。
権威と常識を嗤う令和世代を育て上げる。それは平成世代に託された大きな仕事のひとつだ。いずれ権威や常識に盲従した昭和世代は力を失い、表舞台から姿を消す。昭和世代の頑迷で黴びた価値観に困惑している平成世代にとってはもうしばらくの辛抱だ。「日本ムラ固有の権威」という呪術的な価値観は、説得的で知的で公明正大な言論と思想に囲まれたとき、それは驚くほど惨めになる。
令和世代は、その惨めさを爽快に嗤い飛ばす知性を湛えた世代となって欲しい。
(了)