主体的に生きるとは、自分の意志に従って生きることです。しかし、自分の中には「二人の自分」がいます。
ひとりは価値観から指示される自分。もうひとりは、ありのままの自分。どちらの意志に従うかによって、主体的に生きるという意味は180度変わります。
例えば「頑張る」という解釈。「価値観から指示される自分」にとっての最大の目的は「価値観を貫き通すこと」になるため、目的を叶えるために頑張るのではなく、「頑張るために頑張る」という本末転倒の状況に陥ります。
「志望校合格のために一週間に二回は徹夜する」という目標を掲げた受験生がいるとしましょう。「価値観から指示される自分」を選んだ人は、志望校に合格することより、疲労困憊しながら一週間に二回徹夜する方を優先してしまうのです。
--頑張るとは耐えること。苦しみに耐えなければ良い結果は訪れない。無理をして我慢すればするほど良いことが訪れるはずだ。
このような価値観が強固に形成されていると、「苦しんだ分だけ志望校に合格するのだから、もっと自分を追い込んで苦しめ」というという価値観からの指示が出されます。
志望校に合格するには合格できるだけの問題を確実に解ければ十分なのですが、「自分を苦しめる」ことを優先しているために思考が停止してしまい、「苦しい、つらい」と感じる一方で、「これだけ苦しんで頑張っているのだからうまくいくはずだ」と信じてしまいます。
その背後には、うまくいかなかった場合の周囲や自分に対する「それだけ頑張ったのだからしょうがないよね」という防御の役割も見え隠れします。
このような価値観は生き方にも転写されます。
幸せになるためには我慢しなくてはならない。苦しまなくてはならない。「~しなくてはならない」という思い込みの定型フォームそのままに、苦しみのポイントを貯めていつか幸せと交換しようという価値観が意識に貼り付いています。
「価値観から指示される自分」は本当の意味で主体的に生きていないために、少しの頑張りでもつらく苦しいと感じます。勉強嫌いの小学生にとってたった10分の計算ドリルが苦痛であるように。
しかし、「ありのままの自分」は主体的かつ自発的であるため、「頑張る=我慢する」という捉え方をしません。
この点、藤井聡太竜王の将棋に取り組む姿勢は、自分が「価値観から指示される自分」寄りで生きているのか、それとも「ありのままの自分」寄りで生きているのかを調べるリトマス試験紙になるでしょう。
藤井竜王を「苦痛に耐え、好きなことを犠牲にして血の滲むような努力をしている人」と考えるのか、それとも「自分の気持ちの赴くまま好きな道を歩み、努力を努力と思わない人」と考えるのか。
もし、後者だと思うならば、「ありのままの自分」の目で物事を見ています。
人は生きている限り「苦しさ」から逃れることはできません。「ありのままの自分」にとってそれは「成長痛」であり、「価値観から指示される自分」にとっては「苦痛」となります。
「成長なしでただ苦しい」のは「価値観から指示される自分」に従い続けているからではないか。自分と向き合う人ほどそのことに気づくでしょう。
幼少期に周囲の人々によって意識の壁に貼り付けられた標語が価値観の一面の姿であることは否めません。その標語を剥がし、「価値観から指示される自分」から「ありのままの自分」に主役を交代できるかどうか。
そのときはじめて、「主体的に生きる時間」が動き出します。
(了)