To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

大人の人間的成長は子どもの学力的成長に等しい

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昨年は企業のコンサルティングや管理者研修、個別コーチングの機会がさらに増えた年となりました。気づけば「成長の仕方を教える仕事」として、幅広い年代や属性の人々と関わる機会が多い一年でした。

 

 

その中には、起業を考えている人々も少なからず含まれていました。

 

 

起業を「人格を持った集団」を誕生させると考えた場合、経験値に比例して「ベスト」に近づいていく側面が個人と似ています。明確に「やりたいこと」を抱えて起業に臨んでも、たくさんのぼやけたヴィジョンが浮き彫りになり、確かなものは方角だけしかありません。

 

 

考え抜いたつもりでも、現実に走らせてみないと見えない部分も多く、与えられた状況の中でベターな方向を探りながら手探りで進んでいくような感覚です。走りながら考えて、ベターな選択を重ねるうちに、ベストに辿り着くというイメージでしょうか。個人の成長と同じ軌跡です。

 

 

経験値が高まるとベストに向けて選択肢が狭まります。断捨離に近い判断を無意識のうちに的確に下せるようになるからなのか、それとも直感的に結果がわかるようになるからなのか。人によって実感は異なりますが、そのどちらかであることが多いようです。

 

 

「大人の成長」を考える上で、子どもにとっての「勉強」は参考になります。「勉強ができるようになる」過程は、大人が「人生や人間関係の理解を深める」過程と同じだからです。

 

 

大人にとっての人間的成長。子どもにとっての学力的成長。両者は不安を募らせる存在として常に立ちはだかります。

 

 

「成長しなければ」という義務感は心の負担となります。自尊感情が低い大人にとっては「成長していない」自分を責める材料となって、さらに自己肯定感を下げてしまうという悪循環に陥ります。

 

 

また、完璧主義の大人は「成長した自分=完璧な自分」というセルフイメージを植え付けてしまい、そこに届いていない現在の未熟な自分に失望するという傾向があります。

 

 

そのひとつの結果として「成長」に対する反発が起こり、「無理に成長する必要はない」という論理が生まれ、「ありのままの自分でいいんだ」というミスリードされた「自然体」の姿が理想として広まってしまいました。

 

 

成長に向けた努力をしない方が楽なので、人はそちらに流れます。その結果、「成長しなくても自分らしくいればいい」という考え方に染み付いてしまい、経験値不足により問題を発見することも解決策を講じることもできず、自分らしくいられないという本末転倒な状況を招いてしまうのです。

 

 

水泳教室は泳ぐフィールド、料理教室は料理のフィールドであるように、人生とは成長のフィールドです。「年を取る」とは「肉体が成長する」ことであり、人間は肉体と精神からできていることを考えると、肉体の成長と同じ歩調で精神が成長を遂げないとバランスが崩れてしまいます。

 

 

子どもが各学年ごとに学習内容の履修事項が決まっているように、大人にも年齢に応じた履修事項は決まっています。しかし、それは目に見えないので、経験や読書を通じて学ぶしかありません。運良くそれを示唆してくれる人がいる状況でなければ、勉強よりもはるかに難しいことを自学によって学ばなくてはなりません。

 

 

勉強ができるようになるというのは、「以前ミスした問題を、次は正解する」ことと、「以前ミスした問題の仕組みを理解して、別の問題に応用できるようになる」という二つを意味します。それが勉強、つまり「学力的成長」における経験値です。

 

 

大人における「人間的成長」も同じ仕組みです。しかし、「学力的成長」と「人間的成長」には決定的に異なる点があります。前者は問題が用意されているか、問題点がはっきりしているのに対し、後者は問題を発見するところから始めなくてはいけないという点です。

 

 

経験値不足のため、問題が何かわからず、そもそも問題があるかどうかさえ気づかない。問題を解決して経験値を高めていくにもかかわらず、経験値が不足しているために問題が解決できない。卵が先か鶏が先か。経験値が先か問題解決が先という「経験値のパラドックス」に陥ってしまうのです。

 

 

それを乗り越え、問題の真の姿が見えるようになると、人間的成長を実感できるようになります。

 

 

(了)