(前号からのつづき)
バランスはシーソーと同じで支点がある。家庭でバランスを取る体制になっていたとしても、その支点をどこに置くかで子育ては変わってくる。ここで初めて、子育てを運用する哲学から、子育ての内容の哲学へとシフトする。
例えば、困っている人を助けられる人間、社会の役に立てる人間、リーダーになれる人間。
それぞれの親にはそれぞれの考えがあるだろう。親の人生観が反映されたものである以上、例外を除いて誰にも口を挟む権利はない。壁の一点に掛けられた標語のように、日々の子育ての方向性を示すものとなる。
その「点」はシーソーの支点となり得る。「困った人を助けられる人間」というのが子育ての支点とすれば、父母はそこでバランスを取る。「社会的に成功する人間」が支点であるならば、そこでバランスは取られることになる。
これが哲学的視点から考える子育ての準備と言えるだろう。
ここで哲学を持った教え手は「時間」を用いる。子どもの未来の姿を見て、そこから現在を考え、そのために必要なバランスを考える。
家庭は「現在」を支点としてバランスを取るのが普通だ。教え手は「未来」を支点として、家庭とバランスを取る必要がある。父母がバランスを取る家庭そのものがシーソーの一方に乗り、もう一方に教え手が乗る。そのシーソーは「未来」が支点となる。
家庭は子どもの未来の目標を掲げているが、未来の姿が見えているわけではない。そのため「現在」を軸に動くことになる。「未来」が見えないため、大人の現在を目一杯注ぎ込むことになる。「結果の発想」と「量の発想」というのはそこから来ている。
———少しでも多く勉強させたい。少しでも早く進ませたい。少しでも良い数字が欲しい。
見えない未来は、焦る現在へとつながる。焦る現在は「わかりやすい」現在を求める。たくさん勉強する子ども、勉強が進んでいる子ども、良い数字を取る子ども。これ以上「わかりやすい」現在はない。バランスを取るシーソーは音を立てて軋む。
子育てや学力は本来わかりにくいものだ。それをわかりやすく伝えるのは、教え手の役割だろう。しかし、いつしか「わかりやすさ」は「手軽さ」にすり替えられた。自販機にお金を入れてボタンを押せば商品が出てくるような「手軽さ」を声高に求め、「こうすれば、ああいう結果になるはずだ」という。
それはニーズとなってマーケティングの土俵に乗せられ、手軽な形で提供される。子育てや学力は「時間」という「わかりにくいもの」によって形づくられる「わかりにくいもの」であるにも関わらず、それを伝える気概と力のある教え手は限定的な存在になってしまった。
わかる人は黙々とわかり続ける。わからない人は騒々しく慌てふためく。
二極化に向かう流れの中で、教え手は自身の教育哲学の修正を迫られるかもしれない。
かつてのように「教育理念を掲げ続けること」が教育哲学である時代は終わった。美辞麗句を掲げるだけで、子どもや親がついてくる時代ではない。教育の時空間を縦断的横断的に俯瞰できる視野がなければ、「黙々とわかり続ける人々」から見放されることになる。
20年後の教え子の姿を傍らに常に置きながら、現在の教え子と対峙する。その視点に見識を与え、体系化していくことで、教育哲学の骨格が生まれる。それを経験によって洗練させていくことで、授業という時間は加速し続ける。
(続く)