プロセスを見ない人がいる。
発展途上の相手であっても、結果だけで判断する人がいる。これが上下関係の「上」の人間であった場合、「下」の人間の成長は止まる。少なくとも、「上」の人間によって育てられることはない。
上司に対する部下。親に対する子ども。教師に対する生徒。先輩に対する後輩。
いずれの上下関係においても、プロセスを見ない「上」の人間のもとでは、「下」の人間は成長しない。なぜなら、人を育てる資質に欠けるからだ。
プロセスは成長の記録とも言える。それを丹念に分析することで、対象者の長所と短所が浮き彫りになる。結果への道筋はそこから導き出される。
プロセスを見ない人間に共通しているのが、結果への批判だ。次いで、対象者への批判。結果に対しての批判なら誰にでもできる。「わかりやすい結果」を批判する。これほど「わかりやすい」ことはない。
しかし、本来、人が育つとは「わかりにくい」ものだ。プロセスが「わかりにくい」所以もそこにある。「わかりにくい」からこそ、人を評価する力が問われる。才能を見出す力。かのイチローでさえ、仰木監督との出会いがなければ、現在のような実績を残せていたかどうかわからない。
人を育てる意図がなければ、結果だけで判断しても構わないだろう。人材を育成するつもりがないのだから、自分にとって都合のよい状況で使うことになる。これ以上に「わかりやすい」ことはない。
結果だけで評価された人間はどのように行動するか。結果だけを出すように行動するだろう。プロセスなど意に介さず、結果だけを求める。自分のためではなく、結果のために努力する。そこに手段はない。目的だけがある。
プロセスとは成長の記録である。プロセスの放棄は、成長の放棄でもある。それは未来の放棄とも呼べるだろう。結果という目的に向かう道具になる。
プロセスを見る人々によって手厚く育てられている人間は目を見ればわかる。誰かにプロセスを評価されている人間の目には、成長に伴う高揚感がみなぎる。短所も含めて受け入れられているという安堵が浮かぶ。
人を育てるとは、相手の「わかりにくい」全てを踏まえるということだ。自分に都合のよい「わかりやすい」結果を切り取って、評価することではない。
結果だけで人を評価する。人を育てるつもりのない人間にとって、これほど安易な方法はないだろう。だが、人を育てる側の人間にとって、これほど恥じ入ることもない。
(了)